くだらないの中に

TEAM NACSとか

3.11 6年前の私

東日本大震災から今日で丸6年。

まだ6年なのか、もう6年なのか。

分かりませんが。

震災当日のことと、震災後のこと。

そして、そのときに出会った今も大切な言葉について、

書き留めておこうとおもいます。

 

 

 

2011.3.11.14:46

私は大学3年生。

地元は栃木ですが、当時は神奈川県に住んでいました。

その日は、就職活動で群馬の前橋を訪れていました。

とある企業の会社説明会

たぶん13時スタートとかだったと思います。

いつも通り説明会が進み、そろそろ終わるという頃、

グラグラっと揺れ始めました。

説明会の会場が少しざわつきます。

日本人は地震になれていますからね、少しの地震や驚きません。

そのときの私たちもそうでした。

しかし揺れは続き、大きさを増します。

説明会を開いていた企業の社員さんの声を受け、慌てて机の下に隠れました。

生まれて初めて、本当に机の下に隠れたんです。

その日初めて会った、隣の席の子と少し目が合い、

気恥ずかしそうに笑ったような気がします。

ほら、避難訓練のときとか、真剣さが足りなくてニヤニヤしたことってありません?

そんな感じ。

そのあとも揺れは続き、「あれ、おかしいな」と思い始めました。

いつもと違うぞ、と。

揺れが一旦落ち着いたのかな、社員さんの指示で、

建物の外に避難するように言われました。

市民ホールの中の小さなパーティー会場みたいな場所で、

シャンデリアが揺れていたのを覚えています。

外に出て、もうほとんど説明会は終わっていたから、このまま終了とするということで、その場で解散になりました。

席が隣だった子たちと一緒に「怖かったね」なんて言いながら駅に向かいました。

電車は動いていませんでした。

時々揺れると、どこからか悲鳴が聞こえてきます。

いよいよこれはまずいんじゃないか、と思い始めました。

駅の様子を見て、慌ててお母さんに電話を入れました。

地震発生からまだあまり時間が経っていなかったので、

このときは結構すぐに繋がりました。

お母さんの無事を確認し、自分の状況を伝えました。

今群馬にいること、日帰りのつもりだったこと、電車が動いていないこと。

いつ動き出すか分からないこと、場合によっては迎えに来てほしいこと。

お母さんは仕事中だったので、素早く要件を伝えて、電話を切りました。

説明会が一緒だった子たち数名と、どうしようかとウロチョロし、

しばらく経ってから駅の下にあった喫茶店のようなお店に入りました。

その頃にはTwitter等で状況が分かってきはじめて、

これはもう今日神奈川には帰れないな、と確信しました。

だけれどその頃にはもう電話は繋がらなくなっていて、

お母さんに実家に帰りたいと伝えることができなくなっていました。

喫茶店のテレビには、東北の状況が伝えられていました。

田んぼの様な広い土地に、津波が押し寄せて、

車なのか家なのか、あるいは人なのか。

赤い何かが津波に追いつかれ、すっと飲み込まれていくのが見えました。

理解できませんでした。

嘘みたいで。

作り物のように思えてしまって、いまいち実感がなかったんです。

あのときの様子は、今も、頭の中に写真のように記憶されています。

一緒にいた子たちは、群馬の子ばかりで、

なんとか家族と連絡がついて、一人、また一人と帰ってゆきました。

電車が動かない。

神奈川には帰れない。

でも栃木にもどう帰っていいのか分からない。

親とは連絡が取れない。

どうしよう。

このままだと一人になってしまう。

そんなとき、説明会で隣の席だった子が、

「私の親に栃木まで送って行ってもらえるよう話してみる」と言ってくれたのです。

その日、初めて会った私にです。

本人だって不安なはずですし、これからどうなるか分からないのに。

こういう人っているんですね。

ほんとに、ほんとに、感謝しました。

自宅まで送ると言ってくれたのですが、あまりに申し訳なく、

群馬と栃木の県境付近の駅まで送ってもらえるように頼みました。

信号も街灯もついていないところもありました。

田舎の方ですから、もともとあまり明るくはない町が、

その日は余計に暗く、しんとしていました。

駅まで送ってもらっている最中に、ようやくお母さんと連絡がとれ、

説明会で一緒だった子に○○駅まで送ってもらっているから、

そこまで来てほしいと伝えることができました。

その駅に着くともう両親が待ってくれており、

何度もお礼を言って別れました。

震災が落ち着いたあと、何度か連絡を取り合いましたが、

彼女の連絡先の入ったスマートフォンのデータが消えてしまい、

今はもうその子と連絡を取ることができなくなってしまいました。

こんな人気のないブログに彼女がくることなんて可能性は殆どないと思いますが。

もし見ていたら。

あの時は本当にありがとうございました。

不安で心細かったあの時、あなたと、あなたのお母さんに助けられました。

元気にしていますか?

お仕事は順調ですか?

あなたのような優しく素敵な人が、幸せであることを願っています。

 

震災後 実家暮らしと一人暮らし

震災翌日から、一週間ほど、実家で暮らしました。

理由は、電車がしばらくまともに動いていなかったことと、

食料等の確保ができるかわからなかったこと、

余震、そして一番は家族が心配したからです。

この震災で予定していた就職活動は全てストップ。

急いで神奈川に帰る必要も無くなり、

私自身も不安が大きかったので、親の意見に賛成しました。

一週間ほど経って、神奈川の家に戻りました。

電車は通常に動いていて、それほど大変な思いはせずに戻れました。

一番心配だったのはキッチン。

11日当日は日帰り予定だったので、

朝ごはん食べたときの食器を流しに置いていったままだったんです!

やばいー腐って大変なことになっていたらどうしようー!

と不安だったのですが、少し水が濁っていただけで問題なし。

寒い時期で良かったと思いました。

震災当時都心を離れていたのは私だけで、

大学の友達は皆神奈川にいました。

殆どの子が一人暮らしで、寂しく不安な思いをしていたと思います。

ちょうど就活時期だったので、東京に出かけていた子は多く、

帰れずホテルが解放した広間に寝泊まりした子もいたようです。

そう考えると、当日帰れないかもと不安にはなりましたが、

結果実家に帰れて、一週間両親のもとに居られた私は相当ラッキーだったと思います。

計画停電等もありましたね。

それに合わせて友達と会い、一緒にご飯をしたのを覚えています。

とある居酒屋さんがガスはあるので料理は提供できるとお店を開いてくれていました。

照明はつきませんが、代わりにキャンドルを灯し、

むしろムードがあって素敵になっていたのを思い出します。

こまめに友人と連絡を取り合い、心細さからどうにか逃げようとしていました。

 

支えはTwitter

その当時から大好きだったTEAM NACSの情報を得るために、

日頃からTwitterを利用していました。

震災当日はフォロワーさんから沢山心配していただき、

当時一番仲良くしていたフォロワーさんには、

「車で迎えに行こうか?」とまで言ってもらったのを覚えています。

元々仲良くしていたフォロワーさんとの関わりは勿論ですが、

その頃流行っていた、ACのCMのパロディツイートには笑わされました。

震災からしばらくは、テレビからAC以外のCMが消えました。

番組と番組の間に流れるものは全てACのもの。

特に話題になったのは「こだまでしょうか」。

こだまの部分を他の言葉に変えて、面白くするツイートは何種類も作られ、

皆さんの独創性と、こんな時でも、こんな時こそ笑おうという気持ちが伝わってきました。

避難所の情報や、水を配給している場所の情報、

炊き出し、簡易ナプキンの作り方など役立つ知識。

沢山の情報がTwitterには溢れていました。

私も有益だと思うものはリツイートしました。

きっと、みんな、誰かの、何かの役に立ちたかったんだと思います。

私は、テレビよりも情報が速く、公正で、人に寄り添った、

そんな情報が数多く流れるTwitterの存在に、とても助けられたと思っています。

 

サンサンサンデーの放送

震災から2日後。

3月13日に、大泉洋さんがメインパーソナリティーの、

HBCラジオ『サンサンサンデー』が生放送されることを知りました。

HBCは北海道の放送局なので、関東住みの私は普段は聞くことができません。

しかし震災直後から、ラジコなどでエリア無関係の放送が開始されたことで、

このときの放送を聞くことができました。

もう6年も前なので、内容はよく覚えていないのですが。

確か、いつもに比べ何倍もリスナーからのメールを読み、

現状を、情報を伝え、そして前向きになれる曲を流し続けていたと思います。

震災後、お笑いだとか演劇だとかが不謹慎だとされる傾向にありました。

言ってしまえば「なくても困らないもの」「なくても生きられるもの」は、

後回し、今はそんな状況ではない、ということなのでしょう。

その気持ちは分かります。

食べ物が、寝る場所が、被害状況を知ることが、何より大事だと。

間違ってはいないと思います。

けれども、人は、そこに加えて、

笑うとか、前向きになるとか、希望とか、

そういう形にできないものが、それがあってこそ、立ち上がれるんじゃないかと思うんです。

だから、そのためならお笑いだろうが音楽だろうが演劇だろうが。

もうなんでもいいから。

自分が必要だと思えば見ればいいし聞けばいいし取りにいけばいいと思います。

一人でも必要としている人がいるのであれば、

提供できる人は提供したらいいと思います。

実際サンサンサンデーでは、被災者本人からのメールも届いていました。

彼女たちは、大泉さんとオクラホマの3人の声に、

オフィスキューHBCラジオの決断に、励まされ感謝していたと思います。

 

TEAM NACSと東日本大震災

震災からしばらくして、芸能事務所のアミューズが、

所属タレントのメッセージビデオを公開しました。

TEAM NACSの所属するオフィスキューアミューズと業務提携を結んでおり、

NACSの5人のビデオメッセージもそこにはありました。

5人一人一人が、被災地・被災者へのメッセージを話していました。

その中で、私は、大泉さんの言葉がとても印象的でした。

 

諦めないで、笑顔で前さえ向いていれば、

決して悪い方向には行かないって。

僕はそれだけを信じてポジティブに生きてるんです。

 

もう5年以上前のメッセージですし、メモをとってはいないので、

上記の言葉が一語一句合っているってわけではないと思います。

でも何度も何度も繰り返し見ていたので、ある程度合ってはいるかと。

大泉さんは、東京の大学を目指して2浪して、結局叶わず、

北海学園大学に入学しています。

でも東京の大学に行かなかったからこそ、北海学園大学に入学したからこそ、

現NACSのメンバーに巡り合い、今の大泉さんがあるんだと思います。

一部分だけを見たら、失敗とか挫折に思えることが、

時を経たら成功への布石になっていることがある。

それを体現しているのが、大泉さん、私はそう思っています。

そんな彼の考え方、思い、メッセージは、とても印象深く、

とても真実味があって、信じたいな、信じてみたいなと思いました。

私は被災者では無かったけれど、ことあるごとにこの言葉を思い出します。

就活のときも、最寄の駅からこの言葉を呟きながら企業に向かったものです。

私には、大泉さんがNACSメンバーに出会ったような大きな出会いは無いし、

大活躍もしてないし、地味に平凡に生きていますが、

それでもこの考え方が好きだし、これからもきっと好きです。

 

5人は翌年の2012年、『WARRIOR』という作品を引っ提げて、

全国を回りました。

そこには盛岡も仙台も含まれています。

同年行われた所属事務所のイベントでは、「ラジオ」がテーマでした。

ラジオはオフィスキューにとっての原点でもありますが、

昨年起きた東日本大震災時にラジオが果たした役割を、

大切な存在だと再認識するためのものでもありました。

 

今日も、安田さんがCUE DIARYの中で3.11に触れています。

NACSは、オフィスキューは、3.11を忘れていません。

 

おわりに

今日で6年目。

明日から7年目です。

私は被災者ではありません。

大きな揺れは経験したけれど、自分も家族も元気。

家も変わりなくあります。

人は忘れる生き物です。

どんなに衝撃的なことでも、どんなに辛くても。

少しずつ、少しずつ。

だからこそ、少しでも、時々でも、思い出すこと。

『忘れないこと』が大切だと思います。

またいつ、大きな地震が起きるか、自然災害が起きるか分かりません。

だけれどもし起きた時に、6年前と全く同じことにならないように。

人は忘れず、それを教訓に、乗り越えなければならないと思います。

私が防災リュックを用意するようになったのも、あの震災がきっかけです。

忘れない、思い出す、学び教訓を得ること。

それが私にとって、私たちにとって、何より大切なことだと思います。

 

 

 

『火花』 今更ですが文庫版を読みました

 

本を読むのは好きな方ですが、

趣味の欄に『読書』と書けるほどではない私です。

現に、基本的にハードカバーは買いません。

好きな作家さんの新書が出ていてもしり込みします。

できるだけ文庫になるまで待ちます。

こんな人間を読書好きと言ってはいけないと思うんですよね。

 

本題に戻りまして。

又吉直樹さんの『火花』の文庫を買って読みました。

芥川賞取りましたし、相当話題になったのでもう何番煎じか分かりませんが。

感想をば。

ちなみに感想書くのは苦手です。

どういうこっちゃ。(笑)

以下ネタバレ含みます。

 

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救命病棟24時第3シリーズと俳優大泉洋について

 

関東地区では、一昨日まで救命病棟24時第3シリーズが再放送されていました。

医療モノとして人気の高い救命病棟シリーズ。

第3シリーズでは首都直下型地震が起きたときの、

都市は、救命救急の現場は、ということをテーマに描かれています。

この作品には江口洋介さんや松嶋菜々子さん、

香川照之さん、まだ若い小栗旬さん等が出演されています。

大物が名を連ねる中、今回取り上げるのは大泉洋さん。

 

何故彼を取り上げるか、という理由ですが。

まず第一に私がファンだから。(笑)

そしてこの作品は、彼が東京で、全国放送のドラマに、

初めてレギュラー出演したものだからです。

 

私は大泉洋さんが所属するTEAM NACSという男性5人組の演劇ユニットのファンです。

大学時代にファンになり、今年でファン歴7年目になります。

しかしながらこの救命病棟24時第3シーズンは見る機会がなくここまできました。

今回再放送がやると知って観てみてびっくり。

内容の面白さに。

そして大泉さんの演技に。

 

勿論私は彼のファンですから、

彼のお芝居の上手さも、才能も、知っている。

分かっているつもりでした。

それでもびっくりしちゃったんです。

先述したような名だたる俳優さんの中に紛れても、埋もれないんです。

目立つんです、彼。

目立つのは見た目云々だけじゃないですよ。

声の通り方も、表情も、演技も。

目を惹くんです。

北海道では人気者でも、東京ではまだ知名度はありません。

ドラマの経験値は低いはずですし、ドラマの中でも難易度が高い医療モノ。

大泉さんが演じる佐倉は看護師役だったのでオペのシーン等はありませんが、

台詞も動きも普通のドラマよりも苦労する点は多いのではないでしょうか。

その中でも違和感無く溶け込み、目を惹く。

彼の持ち前の器用さがそうさせるのか。

舞台での経験がそうさせるのか。

それだけじゃないはずです。

彼はあまり努力する姿を人前には見せるタイプじゃありませんが、

人知れず大変な思いをしたのではないかと思います。

素晴らしいです。

 

第3シリーズ、ちょこちょこ大泉さんが演じる佐倉が目立つシーンはあるのですが、

特に顕著なのが9話の終盤です。

 

消防士の平野は、震災時、消防活動に専念するため、

助けを求める被災者達を置き去りにしなければならず、

そのことで自分を責め続け、うなされるなど、心に傷を負っていました。

大泉さん演じる佐倉は、そんな平野が学生時代に体操をやっていたと知り、

「僕体操大好きなんですよ、選手で言うとブルガリアの…そうコマネチ!」

とありったけの体操の知識を使って平野を元気づけようとします。

しかし本当は体操詳しくないんでしょうね、師長から

「あのねコマネチはブルガリアじゃなくてルーマニア。」

「いい加減なこと言うとかえって不信感かうわよ。」と注意を受けてしまいます。

後半、国会議員の寺泉が、

消火活動に専念したのは阪神淡路大震災を教訓に決められたことである。

消防士の彼らは必死に助けを求める被災者を振り切らなければならなかった。

なぜなら燃え広がる炎を消すことができるのは彼らしかいないから。

そうやって消火活動をした彼らを私には責めることができない。

と、会見の場で話し、ラジオを通じて平野らもそれを聞き、涙します。

そこにコマネチについて調べてきた佐倉が再登場。

平野に対して、

 

「平野さん。昨日すみませんでした。実は僕、コマネチよく知らないんですよ。

でも今調べてみたら、コマネチって…波乱万丈の人生というか。

オリンピックで10点満点出した後スランプになっちゃって、自殺未遂の噂まで出て。

そのあと、秘密警察の目掻い潜ってアメリカに亡命したんですって。

何年か後にルーマニア民主化されて、やっと戻れたとき、

彼女は犯罪者呼ばわりされるの覚悟してたんだけど、

国民は彼女を英雄として、笑顔で迎えたんですって。」

 

彼女は体操のせいで辛い目にもあったけど、やっぱり自分は体操が好きなんだって。

それが自分の人生なんだって、今は後悔してないそうです。」

 

「だから……だから平野さんも……消防士だったこと後悔しないでください!」

 

先述の寺泉の話、そして佐倉の言葉で平野はリハビリを開始することを決意します。

 

 

もうもう!

ここの大泉さんの演技が素晴らしいんです。

涙目で、少し声が震えているようで。

必死に、一生懸命に、平野に伝えたくて。

平野に元気になってほしくて。

見ているこっちは号泣です。

ドラマの、東京でのお仕事の経験は少なくとも、

大学時代から培った演技の土台は、力は、見事に表れていますね。

佐倉は比較的明るくお調子者に描かれていますが、

このシーンでは純粋さや真面目さが伝わってきます。

 

 

大泉さんはこの救命病棟の出演を皮切りに、

ドラマや映画に数多く出演し、2011年度の日本アカデミー賞では、

優秀主演男優賞を受賞されています。

昨年の大河、『真田丸』での演技も記憶に新しいです。

(ドラマでの)東京進出から今年で12年目。

今や知らない人はいないくらい有名で売れっ子ですね。

喋りが達者なのでバラエティーに出演しても目立ちますし、

水曜どうでしょう」のイメージが強く芸人さんだと思われている方もいるとか。

俳優ですよ、彼!(笑)

ファンとしてこれは声を大にして言いたい。(笑)

是非彼の出演している作品を観てみてください。

とっても素敵な役者さんだと思います。

 

転職活動

突然ですが。

私転職活動をしています。

 

12月末で前職の業務を終え、溜まりに溜まった有給休暇を全部使って、

2月の半ばで退職をしました。

有給休暇全部使わせてくれて本当にありがとう。

そのおかげで扁桃摘出手術もできました。

(この件はまた後日書きます)

 

私は今27歳で、

前職は新卒で入社し、4年11カ月務めました。

あと1カ月で丸5年だったのにね。

惜しかったね。笑

商社に総合職採用で入社し、法人営業を少しだけやって、あとはほぼ事務でした。

 

「転職をする」ときの方法として、

1.会社を辞めずに、転職活動を平行して行う

2.会社を辞め、転職活動に集中する

この2つのパターンがあります。

上述した通り、会社を辞めておりますので、私は2のパターンです。

 

私の意見ですが、転職するならばできれば1が良いと思います。

仕事をしている状態ならば、金銭面での心配はありませんし、

保険や年金の手続きも会社が行ってくれるので役所に行く必要もない。

なにより気持ちに余裕があります。

場合によっては「転職しない」という選択肢を選ぶこともできます。

 

それでも私が2を選んだ理由は、

転職活動の時間がうまく捻出できなかったからです。

私は事務職でしたが、コールセンターのような業務も行っており、

お客様からクレーム等が入ったり、

商品の管理云々でしばしばトラブルが発生することがありました。

そのため、仕事のあとの予定がとても立てにくかったんです。

夏頃一度今の仕事と平行して転職活動を行おうと動いたこともあったのですが、

面接が入っている日にトラブルが発生して面接に行けなくなってしまったことが

ありました。

他にも予定通りに動けないことがとても多く、

会社を辞めずに転職活動を平行して行うことは無理だと思いました。

私自身元々あまり器用なタイプではなかったので、

性格的なものもあるのかもしれません。

そんなこんなで、「まず辞めちゃおう!」って思いました。

それほど貯金もないのにね。

我ながらなんだろうこの勇気って思います。

だけど後悔はしていません。

今27歳で、今動かなかったらそれこそ後悔すると思いますし、

「早く決めなきゃな」と焦る部分も勿論ありますが、

丸一日面接対策等に使うなんてことは、お仕事してたら難しいですから。

落ち着いて、納得して、自信がつくまで調べたり練習できるのは、

会社を辞めて転職活動に集中しているからこそ、です。

1がオススメですが、2も悪いものはありません。

人それぞれに合う、合わないはあると思います。

 

今現在本格的に転職活動を初めて1カ月が経ちました。

異業種に挑戦しているということもあり、若干行き詰っています。

先日最終までいった企業があったのですが、残念ながら内定には及ばず……!

悔しいですね、やっぱり。

 でも負けないで頑張ります。

就活のときも上手くいかずに悩みましたが、

そのときだって時間はかかったけど内定はもらえたのですから。

私は時間がかかる人だと思うしかありません。

 

……なんて、まだ気持ちに余裕があるからこんなこと言えるのかな。笑

一か月後に全く違うこと言ってたらどうしよう。笑

 

転職するかしないか。

会社に勤めながら転職活動するのは難しいけどどうしよう、って悩んでる人に、

私みたいな人もいますよーと伝わったら嬉しいです。

 

明日も面接!

頑張ります!

 

 

『書く』ということ

 

書くことが好きです。

そして唯一と言っていい特技。

とか書くと、作家とかライターっぽく聞こえるけどそんなんじゃありません。
私はただのOL……年末に仕事を辞めてしまったので、今現在はOLですらない。
いわゆるプー太郎。
無職。(笑)

 

それはさておき。

 

書くことが好きです。
そして唯一と言っていい特技。
……はずだった。
いつ頃からか”モノを書く”が下手になったなと思うようになりました。
以前までは、書くときに悩んだことは殆どなかったんです。
書こうと頭で思えば、ほとんどのものがスラスラ書ける。
それが最近できなくなりました。
めっきり書けない。
このままだと唯一の特技さえも失ってしまう!
そう思ってブログを始めることにしました。
勝手な推測だけれど、「書かない」から「書けない」のではないかと思ったから。
確かにここ数年文章を書く機会が減りました。
仕事でも薄っぺらい報告書程度しか書かないし、

趣味のことを書いていたブログももうずっと更新していません。
Twitterとかインスタグラムは更新するけれど、百数文字程度。
アカーン!
そんなこんなでいそいそと新しいブログを開設。
今に至る。
こんにちは、はじめまして、はてなブログ様。
以後よろしくお願い申し上げます。

 

私の勝手な考えですが、
本を読む人は、比較的書くことが得意な人が多いのではと思っています。
0から1を生み出す小説家になるにはまた別の才能が必要だとは思うけれど、
書く行為だけであれば、本を読む習慣のある人であればきっとさほど悩まない、と。
本を読むことで、無意識のうちに書くことも学んでいる感があるのかなぁと。
私も(きっと)その一人。
私は小さいころ体が弱かったせいか、外遊びよりも室内で遊ぶことのほうが多い子供でした。
親から絵本を沢山与えられていたわけではなくて、
私が本を読むようになったのは小学校に上がってから。
初めて借りた本はたぶん「フランダースの犬」的な何か。
犬の話だったとおもうんだけどなー。
名作云々的な何かなんだよなー。
覚えてないなら書くなよってね。
入学早々風邪で学校を休んで図書室利用のオリエンテーション

参加こそできなかったものの、
なんとか図書室の使い方をマスターした私は、黙々と本を借り続けました。
決して友達がいなかったわけじゃないですよ。
それなりにいた……はず。(笑)
学年で一番本を借りた人の名前が図書だよりに載るとか、

たぶんそんな感じの企画があって、

そのとき特に秀でたものがなかった私にとって、

いっぱい読んだらそれに載るんだっていうのが
ドキドキしてワクワクして嬉しかったんだと思うんです。
そんな単純なものだったけど、私にとってはそれが功を奏しました。

初めて「あ、私文章書くの得意なんじゃない?」と思ったのは小学校2年生のとき。
夏休み明けの始業式に、全校生徒の前で読むことになったんです。
私の通っていた小学校では、終業式や始業式に、
学年で一人ずつ作文を発表するというものがありました。
内容は「○学期を振り返って」とか「○学期を迎えて(の目標)」とか。
夏休み前に私もそんな感じの作文を書いたのですが、それが選ばれたんです。
当人はびっくり「なんで私が」としか言いようがない気持ちでいっぱいでした。
そして私は大の緊張しい。
全校生徒……確か600人はいたと思うのですが、

そんな大勢の前で作文を読むなんて!
夏休み中ずっとそのことが頭から離れなくて、「夏休み終わらないで」と思ってました。
宿題も終わっていなかったので、そういう意味でも「夏休み終わらないで」だったけど。
当日のことはまぁ殆ど記憶がありません。
内容はふわっとしか覚えていませんが、
学年で一人選ばれたということは、まぁきっとそれなりに書けていたんでしょうね。
“選ばれた”という事実が、私に自信をくれました。

選ばれたという事実が自信に繋がり、自信のあるものは総じて好きになる。
好きこそものの上手なれ、とはよく言ったもので、
小学校2年生のその作文を皮切りに、私の(小さな)快進撃が始まります。
まず書くのが速い。
悩まない。
そして(それなりに)よく書けている。
何かにつけて選ばれる。
農林水産省主催の作文、読書感想文、中学生の頃は「少年の主張」という意見文……
校内で選ばれ、場合によってはその先の大会に出されました。
結果として大きな賞をもらったことは無いので
結局は小さな学校留まりの能力でしかなかったわけですが、
それでも私にとっては、唯一誇れる部分でした。
高校生くらいからブログを書くようになり、大学でTwitterなどのSNSも始めました。
フォロワーさんから「読みやすい」「すっと入ってくる文章」と褒めていただいたり、
大好きな芸能人の質問コーナーに送ると高確率で選ばれたりとかもしました。
嬉しかったなぁ。
褒められるのも選ばれるのも嬉しかったんです。
私にとってはきっと何より、書いたものを認めてもらえるのが一番嬉しかった。
自分自身を肯定してもらえたような気がしました。
今思い出してもちょっと泣きそうなくらい。

 

アイデンティティのなんたるかは分かりません。
大学で、しかも必修の授業で習ったけど正直覚えてません。
(ごめんS先生)
でも、おぼろげに思い出すアイデンティティは「自分らしさ」。
私の“アイデンティティ”は、きっと「書くこと」なんだと思います。

 

書くことを怠っていたせいで、その唯一のアイデンティティを失いかけている。
このブログを通して、必死に取り戻そうとしている私です。