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くだらないの中に

TEAM NACSとか

3.11 6年前の私

東日本大震災から今日で丸6年。

まだ6年なのか、もう6年なのか。

分かりませんが。

震災当日のことと、震災後のこと。

そして、そのときに出会った今も大切な言葉について、

書き留めておこうとおもいます。

 

 

 

2011.3.11.14:46

私は大学3年生。

地元は栃木ですが、当時は神奈川県に住んでいました。

その日は、就職活動で群馬の前橋を訪れていました。

とある企業の会社説明会

たぶん13時スタートとかだったと思います。

いつも通り説明会が進み、そろそろ終わるという頃、

グラグラっと揺れ始めました。

説明会の会場が少しざわつきます。

日本人は地震になれていますからね、少しの地震や驚きません。

そのときの私たちもそうでした。

しかし揺れは続き、大きさを増します。

説明会を開いていた企業の社員さんの声を受け、慌てて机の下に隠れました。

生まれて初めて、本当に机の下に隠れたんです。

その日初めて会った、隣の席の子と少し目が合い、

気恥ずかしそうに笑ったような気がします。

ほら、避難訓練のときとか、真剣さが足りなくてニヤニヤしたことってありません?

そんな感じ。

そのあとも揺れは続き、「あれ、おかしいな」と思い始めました。

いつもと違うぞ、と。

揺れが一旦落ち着いたのかな、社員さんの指示で、

建物の外に避難するように言われました。

市民ホールの中の小さなパーティー会場みたいな場所で、

シャンデリアが揺れていたのを覚えています。

外に出て、もうほとんど説明会は終わっていたから、このまま終了とするということで、その場で解散になりました。

席が隣だった子たちと一緒に「怖かったね」なんて言いながら駅に向かいました。

電車は動いていませんでした。

時々揺れると、どこからか悲鳴が聞こえてきます。

いよいよこれはまずいんじゃないか、と思い始めました。

駅の様子を見て、慌ててお母さんに電話を入れました。

地震発生からまだあまり時間が経っていなかったので、

このときは結構すぐに繋がりました。

お母さんの無事を確認し、自分の状況を伝えました。

今群馬にいること、日帰りのつもりだったこと、電車が動いていないこと。

いつ動き出すか分からないこと、場合によっては迎えに来てほしいこと。

お母さんは仕事中だったので、素早く要件を伝えて、電話を切りました。

説明会が一緒だった子たち数名と、どうしようかとウロチョロし、

しばらく経ってから駅の下にあった喫茶店のようなお店に入りました。

その頃にはTwitter等で状況が分かってきはじめて、

これはもう今日神奈川には帰れないな、と確信しました。

だけれどその頃にはもう電話は繋がらなくなっていて、

お母さんに実家に帰りたいと伝えることができなくなっていました。

喫茶店のテレビには、東北の状況が伝えられていました。

田んぼの様な広い土地に、津波が押し寄せて、

車なのか家なのか、あるいは人なのか。

赤い何かが津波に追いつかれ、すっと飲み込まれていくのが見えました。

理解できませんでした。

嘘みたいで。

作り物のように思えてしまって、いまいち実感がなかったんです。

あのときの様子は、今も、頭の中に写真のように記憶されています。

一緒にいた子たちは、群馬の子ばかりで、

なんとか家族と連絡がついて、一人、また一人と帰ってゆきました。

電車が動かない。

神奈川には帰れない。

でも栃木にもどう帰っていいのか分からない。

親とは連絡が取れない。

どうしよう。

このままだと一人になってしまう。

そんなとき、説明会で隣の席だった子が、

「私の親に栃木まで送って行ってもらえるよう話してみる」と言ってくれたのです。

その日、初めて会った私にです。

本人だって不安なはずですし、これからどうなるか分からないのに。

こういう人っているんですね。

ほんとに、ほんとに、感謝しました。

自宅まで送ると言ってくれたのですが、あまりに申し訳なく、

群馬と栃木の県境付近の駅まで送ってもらえるように頼みました。

信号も街灯もついていないところもありました。

田舎の方ですから、もともとあまり明るくはない町が、

その日は余計に暗く、しんとしていました。

駅まで送ってもらっている最中に、ようやくお母さんと連絡がとれ、

説明会で一緒だった子に○○駅まで送ってもらっているから、

そこまで来てほしいと伝えることができました。

その駅に着くともう両親が待ってくれており、

何度もお礼を言って別れました。

震災が落ち着いたあと、何度か連絡を取り合いましたが、

彼女の連絡先の入ったスマートフォンのデータが消えてしまい、

今はもうその子と連絡を取ることができなくなってしまいました。

こんな人気のないブログに彼女がくることなんて可能性は殆どないと思いますが。

もし見ていたら。

あの時は本当にありがとうございました。

不安で心細かったあの時、あなたと、あなたのお母さんに助けられました。

元気にしていますか?

お仕事は順調ですか?

あなたのような優しく素敵な人が、幸せであることを願っています。

 

震災後 実家暮らしと一人暮らし

震災翌日から、一週間ほど、実家で暮らしました。

理由は、電車がしばらくまともに動いていなかったことと、

食料等の確保ができるかわからなかったこと、

余震、そして一番は家族が心配したからです。

この震災で予定していた就職活動は全てストップ。

急いで神奈川に帰る必要も無くなり、

私自身も不安が大きかったので、親の意見に賛成しました。

一週間ほど経って、神奈川の家に戻りました。

電車は通常に動いていて、それほど大変な思いはせずに戻れました。

一番心配だったのはキッチン。

11日当日は日帰り予定だったので、

朝ごはん食べたときの食器を流しに置いていったままだったんです!

やばいー腐って大変なことになっていたらどうしようー!

と不安だったのですが、少し水が濁っていただけで問題なし。

寒い時期で良かったと思いました。

震災当時都心を離れていたのは私だけで、

大学の友達は皆神奈川にいました。

殆どの子が一人暮らしで、寂しく不安な思いをしていたと思います。

ちょうど就活時期だったので、東京に出かけていた子は多く、

帰れずホテルが解放した広間に寝泊まりした子もいたようです。

そう考えると、当日帰れないかもと不安にはなりましたが、

結果実家に帰れて、一週間両親のもとに居られた私は相当ラッキーだったと思います。

計画停電等もありましたね。

それに合わせて友達と会い、一緒にご飯をしたのを覚えています。

とある居酒屋さんがガスはあるので料理は提供できるとお店を開いてくれていました。

照明はつきませんが、代わりにキャンドルを灯し、

むしろムードがあって素敵になっていたのを思い出します。

こまめに友人と連絡を取り合い、心細さからどうにか逃げようとしていました。

 

支えはTwitter

その当時から大好きだったTEAM NACSの情報を得るために、

日頃からTwitterを利用していました。

震災当日はフォロワーさんから沢山心配していただき、

当時一番仲良くしていたフォロワーさんには、

「車で迎えに行こうか?」とまで言ってもらったのを覚えています。

元々仲良くしていたフォロワーさんとの関わりは勿論ですが、

その頃流行っていた、ACのCMのパロディツイートには笑わされました。

震災からしばらくは、テレビからAC以外のCMが消えました。

番組と番組の間に流れるものは全てACのもの。

特に話題になったのは「こだまでしょうか」。

こだまの部分を他の言葉に変えて、面白くするツイートは何種類も作られ、

皆さんの独創性と、こんな時でも、こんな時こそ笑おうという気持ちが伝わってきました。

避難所の情報や、水を配給している場所の情報、

炊き出し、簡易ナプキンの作り方など役立つ知識。

沢山の情報がTwitterには溢れていました。

私も有益だと思うものはリツイートしました。

きっと、みんな、誰かの、何かの役に立ちたかったんだと思います。

私は、テレビよりも情報が速く、公正で、人に寄り添った、

そんな情報が数多く流れるTwitterの存在に、とても助けられたと思っています。

 

サンサンサンデーの放送

震災から2日後。

3月13日に、大泉洋さんがメインパーソナリティーの、

HBCラジオ『サンサンサンデー』が生放送されることを知りました。

HBCは北海道の放送局なので、関東住みの私は普段は聞くことができません。

しかし震災直後から、ラジコなどでエリア無関係の放送が開始されたことで、

このときの放送を聞くことができました。

もう6年も前なので、内容はよく覚えていないのですが。

確か、いつもに比べ何倍もリスナーからのメールを読み、

現状を、情報を伝え、そして前向きになれる曲を流し続けていたと思います。

震災後、お笑いだとか演劇だとかが不謹慎だとされる傾向にありました。

言ってしまえば「なくても困らないもの」「なくても生きられるもの」は、

後回し、今はそんな状況ではない、ということなのでしょう。

その気持ちは分かります。

食べ物が、寝る場所が、被害状況を知ることが、何より大事だと。

間違ってはいないと思います。

けれども、人は、そこに加えて、

笑うとか、前向きになるとか、希望とか、

そういう形にできないものが、それがあってこそ、立ち上がれるんじゃないかと思うんです。

だから、そのためならお笑いだろうが音楽だろうが演劇だろうが。

もうなんでもいいから。

自分が必要だと思えば見ればいいし聞けばいいし取りにいけばいいと思います。

一人でも必要としている人がいるのであれば、

提供できる人は提供したらいいと思います。

実際サンサンサンデーでは、被災者本人からのメールも届いていました。

彼女たちは、大泉さんとオクラホマの3人の声に、

オフィスキューHBCラジオの決断に、励まされ感謝していたと思います。

 

TEAM NACSと東日本大震災

震災からしばらくして、芸能事務所のアミューズが、

所属タレントのメッセージビデオを公開しました。

TEAM NACSの所属するオフィスキューアミューズと業務提携を結んでおり、

NACSの5人のビデオメッセージもそこにはありました。

5人一人一人が、被災地・被災者へのメッセージを話していました。

その中で、私は、大泉さんの言葉がとても印象的でした。

 

諦めないで、笑顔で前さえ向いていれば、

決して悪い方向には行かないって。

僕はそれだけを信じてポジティブに生きてるんです。

 

もう5年以上前のメッセージですし、メモをとってはいないので、

上記の言葉が一語一句合っているってわけではないと思います。

でも何度も何度も繰り返し見ていたので、ある程度合ってはいるかと。

大泉さんは、東京の大学を目指して2浪して、結局叶わず、

北海学園大学に入学しています。

でも東京の大学に行かなかったからこそ、北海学園大学に入学したからこそ、

現NACSのメンバーに巡り合い、今の大泉さんがあるんだと思います。

一部分だけを見たら、失敗とか挫折に思えることが、

時を経たら成功への布石になっていることがある。

それを体現しているのが、大泉さん、私はそう思っています。

そんな彼の考え方、思い、メッセージは、とても印象深く、

とても真実味があって、信じたいな、信じてみたいなと思いました。

私は被災者では無かったけれど、ことあるごとにこの言葉を思い出します。

就活のときも、最寄の駅からこの言葉を呟きながら企業に向かったものです。

私には、大泉さんがNACSメンバーに出会ったような大きな出会いは無いし、

大活躍もしてないし、地味に平凡に生きていますが、

それでもこの考え方が好きだし、これからもきっと好きです。

 

5人は翌年の2012年、『WARRIOR』という作品を引っ提げて、

全国を回りました。

そこには盛岡も仙台も含まれています。

同年行われた所属事務所のイベントでは、「ラジオ」がテーマでした。

ラジオはオフィスキューにとっての原点でもありますが、

昨年起きた東日本大震災時にラジオが果たした役割を、

大切な存在だと再認識するためのものでもありました。

 

今日も、安田さんがCUE DIARYの中で3.11に触れています。

NACSは、オフィスキューは、3.11を忘れていません。

 

おわりに

今日で6年目。

明日から7年目です。

私は被災者ではありません。

大きな揺れは経験したけれど、自分も家族も元気。

家も変わりなくあります。

人は忘れる生き物です。

どんなに衝撃的なことでも、どんなに辛くても。

少しずつ、少しずつ。

だからこそ、少しでも、時々でも、思い出すこと。

『忘れないこと』が大切だと思います。

またいつ、大きな地震が起きるか、自然災害が起きるか分かりません。

だけれどもし起きた時に、6年前と全く同じことにならないように。

人は忘れず、それを教訓に、乗り越えなければならないと思います。

私が防災リュックを用意するようになったのも、あの震災がきっかけです。

忘れない、思い出す、学び教訓を得ること。

それが私にとって、私たちにとって、何より大切なことだと思います。